昭和五十二年九月六日 朝の御理解

 御理解第九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」


 真の信者じゃというのは信心の篤いのが真の信者じゃと教えてあります。信心が篤いというのは何十年間朝参りを続けておりますという様なことではない。沢山おかげの体験を持っておるということでもない。これは本当に日参り夜参りしておる人達が本気で考えなければならない事だと。夕べは壮年会でしたからそのことを繰り返し申しましたことでしたけれども、何時何時あんなおかげを頂いたといった様なおかげは頼りになるものではないということ。どうでも一つ、いうなら物やら金やら人に頼る。いうなら子供に頼るといった様な、お互い元気な時にはそんなこと考えもしないけれども、段々年を取ってくると、例えば子供に粗末な扱いでも受けるようになると、もう本当に年寄りの悲哀というか本当にどうにも仕様がない。若けりゃどんなにでもなるけれども、もう年を取って五体が動かん、まあいうならば、お参りしようと思うてもお参りも思う様に出来ないというごとなって来ると本当に悲しいことになってしまわなきゃならない。
 昨日も、ある熱心に合楽へ何十年間信心をして、親先生初めてこんな悔やみ話しをしますけれどもと言うて、それこそ涙ながらにお届けがあったんですけれども、子供が「ばばさん養老院へ行け」と言う。もう私はこれを聞いた時に、もうそれこそ血の気の引く様な思いがして、だから「この家は、これは本当に私が働きで得た家だと。私が建てた家じゃけん、私は養老院にやるごたるなら、あんたどんが夫婦で出ていってくれんの」と言うたと言うてここで泣かれるわけです。もう本当にそれこそ、もうおかげは鮮やかなおかげを頂いて、なるほど家も建てた、立派なお神様の部屋も出来たという様なおかげを頂いておってもです。結局おかげ信心ではもうこんなにつまらんことはないということ。お互い本気で一丁信心。
 昨日、私は壮年部の方達に繰り返し申しました。「あなた達は本当に、とりわけ壮年会長の松岡さんに、もう本当におかげばちょいとたまがる様なおかげを頂いて、今日あなたがあるけれども、この家にどん頼りなさんな、店にどんにも頼りなさんな、子供達でも頼っちゃならんばい。本当に頼りになるのは神様だけというだけの信心を頂きなさい」と私は繰り返し申しました。子供は頼りにはならん。お金やら物やら頼りにはならん。それが松岡さん、まあだあなたが今この元気だから、そんなこと考えたこともなかろうけれども、なら今度は合楽にお参りしようと思うばってん、もう五体がいうことを聞かんというごとなって、もし息子からどう言われ、もう息子が我が儘自由する様になり、そしたら松岡さんどげんなるのと。それこそ今日お取次ぎさせて頂いて、今お話をしている話をさせて頂いたことでしたけれども、こげな哀れな話はなかばいち。もうおかげば山ほど頂いとったっちゃ駄目。
 昨日は宮崎支部の共励会に是非高橋さんにお出で頂きたいと指名があっとったそうですから。宮崎、都城に支店がございますから、支店に行く用もあることだから、なら参りましょうと約束しとった。ここから誰か先生をと言うので、梶原先生が付いて行きました。もうその第一あちらへ行ってから、あちらの方達の熱気に押されてしもうた。僕達が話すところは何もなかったという位である。もう皆がおかげを受けとる話を聞いてもらわにゃおられんという、まあ人数は三十名余りだったそうですけれども、もう一人一人が素晴らしい体験を持っておる。
 まだここに二、三回しか参って来ん、昨日、一昨日でしたかね、細田さんという人の話を、何をしなさるとですかね。<牛馬の化学飼料です。>この頃お話した様に手のひらを返す様に、もういよいよいかんから行き詰まって止めると言うて意気消沈しとられるところに、まあ合楽の話を聞いて、わざわざ一日にはお参りせんならんけれども、その一日、二日前にお導きを頂いて参って来て、まあこげな遠かとこ参って、何になるじゃろうかと思って夫婦で参って来るごと来たものの、もう本当に例えば今の行き方が、お神様にお願いしてからそんなに手のひらを返す様な事が出来る筈がない。沢山の借金、品物は売れない、もうどうにも出来ない羽目に立ち至っておる。だから、そんな気持ちで参った。サアところがお参りしてお話を頂いとる内に、それこそ目が輝き出す位に、こりゃここで助かるぞという様なものが出来てきて、そして帰る道々大変ないろいろおかげを頂いておる。私がお話をしたその後のお話を、丁度その日に細田さんもとにかくお礼参拝をしてきました。そして今日は宮崎の共励会があるそうですから、夫婦で出る様にしとるから、それに間に合いたいからと言うて、つんぐり返しに帰って丁度半ばにこちらから着かれて、夫婦でみえて、夫婦が移り変わり話されるのに、そりゃそりゃもうとにかく、もう本当にたまがる様なおかげを受けておられるわけです。だからそういう例えば宮崎の支部の人達がおかげを受けておるそのおかげが、どこにそのおかげの秘密があるのだろうかと誰しもやっぱり思います。
 昨日は日田の梅山さんも出て来ておられました。これからは一つ壮年部会に是非出席したい。まあ、ささやかですけれども一心発起して壮年部会だけはどうでもと、いう気になって今日は出て来た。それも夫婦でいつも話すことですけれども、宮崎の人達のああいう手の平を返す様なおかげの秘密はどこにあるだろうかという様な話題になりました。それでこれはどうでも、やはりあちらは元土地の教会に熱心に幹部の中の幹部という程しに信心を手篤う頂いとられたわけです。ですから、どうしてもそのおかげの頂きにくいおかげが回り遠うなる様な信心ばかりをして来とるということです。ですから、それがこれにしみこんでいるです。これはもう確かにそうです。熊谷さんが甘木の信心を頂かれて、その甘木の信心から合楽の信心に代わることのためにだけでも、やっぱり十年もまた以上もかかられたかも知れません。そして現在ああいう合楽の信心をまあ自分の心の中に打ち立てて、現在ああしておかげを受けておられるわけです。そういうことが一つの原因であろうかと。してみると日参り夜参りした、大変な御用が出来た、おかげは受けたという様な信心は信心が手篤いということてはないのであって、また、それが真の信者でもないということなんですね。真の信心とはどういうことかと、なら信心の手篤いのが真の信者と。一生懸命参って御用するのが信心の手篤いのじゃないと。
 昨日、そのおばあさんのお話をする様に、それこそ御用も出来られた、一生懸命お参りも出来た。もうおかげ話ならばもう本当に何十年間の間に、もう本当に様々な不思議なおかげも頂き続けてきた。そして、この頃は日参り夜参りも出来ん様になってから、体が段々弱うなって来たら、子供から養老院行きの話が出た時にです、もうそれこそ血の気の引く様な思いで悲しい思いをしたと。だからここには信心が一つも役に立っとらんでしょうね。信心を頂いとらん。おかげを頂いてきただけなんです。おかげを頂くから御用をするのは当たり前のこと。お供えならお供えでもをするのは当たり前のこと。それが本当に、昨日は松岡さんに、真ん前に座っとられましたから、松岡さんはおかげをそれこそ何十年間の間にもう本当にたまがる様なおかげを頂き続けて来ておられますからね。なら今度は五体が動かんごとなる。足が動かんごとなるというて、そしてさほど熱心でもない子供達は信心をするけれども、もうじいさん養老院に行かんのと言うごとなったらどうするかと。だから子供は絶対当てにはならないよ。ならどれだけ財産持っとったっちゃ財産だけでは頼りにならないよと。自分の心の中に有難いとか勿体ないとか、安心の信心の喜びを頂いて、だから誰ん頼らん。サアじっちゃまばっちゃまと言うて子供がしてくれるなら、それに乗っちゃならんということじゃない。有難い有難いで受けていけばよいけれども、こっちから頼むばい、もう私も体がこげん動かんごとなったけけん、どうぞ頼むばいと頼まんならんごたるこっちゃできんばい。いえ頼まんでん私は金持っとるけん、私が養老院に行けちゅうなら、あんたどんが出て行かんのと言うて一人侘しい生活に入って行かんならん。これ程悲しいことはないですよね。
 信心がどこにその薫りがあるか、信心の値打ちがあるか。おかげ信心じゃ絶対に値打ちはなかということです。宮崎の方達の場合は斬新な信心をするからということじゃくて、これはいわば「願う氏子におかげを授け」とおっしゃる。そこを頂きよるだけのことね。「願う氏子におかげを授け」、信心が出来とるわけでも何でもない。帰り道にそげなたまがるようなおかげを頂いていって、そしてそのおかげ話を人に聞いてもらわねばおられない程しのおかげを受けておるけれども、「理解申して聞かせ」と、おかげだけではない。おかげを渡した後には理解申して聞かせて、その信心に基づくところの生活が出来、いわゆる本当の信心生活が出来、そこから信心の徳も受け、力も受けて、誰にでも頼らんでも済む。金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃというところの信心を頂いとかなければ、本当に悲しいことになるです。昨日でしたかね、いわゆる操り人形ということを、神様の良い操り人形にならせて頂くという様なです。日田の先生の有名なお言葉の中に「神、人を求め給う」という言葉があるが、沢山の信者を求め給うのじゃない、神様の手にも足にもなろうかという位な人を求め給うのである。ただおかげおかげで集まってくるのが、うんがの様に集まってきたところで何の当てにも頼りにもならん。それこそ烏合の衆じゃつまらん。烏合の衆の中に入っちゃつまらん。
 昨日、私、研修の時に若先生が、今度野球の王選手がそれこそ前代未聞でしょうね。十九年位の間に何百本ですか世界新記録を作ったという。もうとにかく一年にホームランを四十本ずつ打っていかにゃならんという、そういう事にならない。その人物の素晴らしいことの話を研修の時に若先生がしよりましたが。その話を聞いとったからでしょう。<四時の時に>お礼さして頂いておりましたら、野球場の観衆が沢山見物しよるでしょうが、見物の席と野球の選手が野球をやっておる場面を別々に頂きます。だからいかに野球が好きというても観客じゃつまらんということです。もうそれこそ、それも神様の氏子に間違いないですけども、ただ野球が面白いのというのじゃなくて、結局は野球ができる、いわば信者にお取り立て頂かにゃいけん。沢山の信者がおるけれども、それこそ<    >神様のいうなら手にも足にもならせて頂こうかと。五つの願いの中に皆さんが繰り返し願っておられることであろうと思うけれども、本当にお役に立つ、天地金乃神様の御神願成就のことのためにお役に立つ位な信心を頂きたい。それにはやはり信心が頂けており力を頂いておかなければ出来ない。年を取って行けば行くほどに有難うなっていくという信心でなからにゃいかん。年を取っていくにしたがって、ほんに若い時にはあげな信心も出来よったばってん、年を取ったけん出来んと言うて、淋しうなったり、悲しうなる様な信心じゃ。おかげ信心じゃつまらんということ。どうでも本気で、いわゆる信心そのものを頂いて、いうなら力を感じ、いうなら光を感じさせて頂ける様な信心でなからなきゃいけない。。
 私は「信心の手篤いのが真の信者じゃ」とこうおっしゃるが。日参り夜参りしておる。それはおかげを頂くから、夜参り日参りをしておる。御用をさして頂いておるという信者では、今日は手篤い信者の中には入らんと思う。真の信者の中には入らんと思う。真の信者というのは本当に神様の手にも足にもならせて頂こうかという様な、これはお道の教師にならにゃんという様なことでは決してないです。自分の心に絶対の信が生まれてくる信心。
 昨日、竹内先生が正奉仕でしたから所感に、その一節を読んでみますと、こういうことを書いとる。「不動の取次ぎが出来る私でありたい。ためには合楽理念には天地がバックであるとの確信をいよいよ深め、合楽理念の行者に徹せねばならん。」と書いとります。もう天地がバックだということなんです。誰がバックになってくれることもいらん。誰が手を貸してくれることもいらん。もう私のバックは天地だと、その天地が私のためにいつもこの様に間違いなく働き下さってある。またその天地との交流というものを、日々の生活の中に感じられる様な信心を頂いとりゃ、誰に頼らんでも良い。天地がバックなんだ。それにはいよいよ合楽理念の行者に徹しなければならない。いよいよもって合楽理念の行者に。もうこれは合楽に御神縁を頂いておられる人は皆、そうであらなければならない。そこから生まれて来る信心であり、おかげであるという中におかげを頂いて初めて、いうなら信心が手篤いということになるのじゃないでしょうか。本当に心行に心行を重ねなければならない。いやいつも心行がなされておらなければならない。
 昨日、繁雄さんが発表しとられましたが、二、三日前畑で仕事を終わって、帰らせて頂く時に、心に御心眼に稲の穂がこう垂れておるところを頂かれた。そして心に思われることが、もう夜中にどげんおしめりがあっても大丈夫という手立てだけはしていっとかんなら、していっとかんならんと心に響いてくるというわけです。それでもそんなに頂いておりながら、帰らせて頂いて風呂にでも入ってゆっくりしとったら、夕立で土砂降りだった。サアその時に本当にあんなに神様からわざわざお知らせを頂いておって、心行が出来とらん証拠に、それを実行して来てない。子供達ももし行っとったじゃろうから、「もう降ったっちゃよかごとしとかにゃいけんぞ」と言うて、しとけばよかったけれども、しとらなかったから、もうそれこそ皆の者がふんどしまで濡れてしまう位に濡れしぼ垂れで帰って来てから、心行心行と親先生が言われるばってん、本当におろそかな事だなと思うたと。しかも神様から、そう思わせまで頂いておるのにもかかわらず、それをちょっと実行すればよいことを実行してなかったという発表をしとんなさいましたがね。ですからもう天地と交うておる程しのおかげを頂いとっても、それをおろそかにして行く様なことでは、いわゆる天地がバックだという様な確信、確立は生まれてこないということ。その心を神様に向けて、そしてなそうと思えば子供でもなせる様な信心をいよいよもって身に付けて行かなければならないなと。いつほんなら子供がです。例えば「じいさん、お前養老院に行かんないち」、例えば子供が言うたところで、全然心に障らん様な、問題にならない様なおかげを頂いたら、もうその場で子供がおかげを頂くことでしょう。口で言う事も、何もお前どんに頼らんとも、これは俺が建てた家じゃけんお前どんが出て行けと言う事も何もいらん。もう神様どういう様な御都合じゃろうかと、神様の御都合のことでも考えとればよいのである。折角信心をさして貰う。いうならば信心の手篤いのが真の信者、真の信者を目指す。ならその信心が手篤う出来る。毎日参りよるけん自分は手篤い信者と思い間違えておると、年を取って、体が五体が動かんごとなって、養老院行きと言われるごとなったら、もうその場で地獄の底に突き落とされるごたる思いをせんならん。そういう信心じゃ何もならん。例えそういう場に在ってもビクともせんですむだけの信心を頂きたい。そういう信心を身に付けて行ってこそ初めて手篤い信者であり、真の信者と言うことになるのじゃないでしょうかね、どうぞ。